gusonの日記

脳外科勤務医.仕事,茶と書,仏教,趣味,その他について独り言です.

怒り

 仏教では固く禁じられている。瞋恚?と言うか。一般の在家信者が守るべき五戒には含まれていない。しかし、出家得度した者には不瞋恚として、つまり十善戒にはある。怒るな、これは難しい。いわゆるちゃぶ台返しと言う原型が日本の昭和にはある。これはダメだろう。いくら、在家とは言えそれをやるとさすがにお坊さんからお叱りをうけよう。怒りは発散して、おしまい、と言うものではない。発散してとち狂った事をしてしまう、トンチンカンな事態、しばしば致命的事態を招くと言う、古来これに関する教訓は多い。

 心の奥にしまい込む、そう言う怒りもあろう。発散の反対、制御し押し潰していく、そう言う怒りである。制御できるかどうか。仏の心にも我々の言う瞋恚とは相違する何か心の憂いと言うか、瞋恚を超えた慈悲があるのだろう。全ての人を渡す、そして自分は最後にわたる。阿弥陀如来、浄土で修行する道をお示しになった。これについて、仏や阿弥陀如来までいかずとも、伝教大師、弘法大師、親鸞聖人などはどうであったか。あるいは日蓮聖人しかり、心に熱い何かを抱きながら、それは瞋恚を原点にしていないだろうか?すべての人に南無阿弥陀のお札を配り続けた一遍聖人、旅を続け、お札を配り続けていく、それは怒りを原点にしていないのだろうか?

 一遍聖人の死に様、宗教家の典型であろう。のたれ死と言ってよい。1人伝道に勤め、死す。今かの聖人の名前が今日まで残っているのは、たまたま弟子の一人が彼を祖とする教団を立ち上げたからにすぎない。聖人ご自身では生前にはまったく教団なるもの作ろうと思わず、教団なるものは存在していなかったのだ。

 一般人にとって怒りとは何か、どのようにこれと付き合うのか、ともかく瞋恚はよく無い、それだけは押さえておく。大体において、自分自身に対する怒りであって、それを他人の責任にしようとする、それが怒りの本質的であろう。自分を責め反省すればよろしい。