gusonの日記

脳外科勤務医.仕事,茶と書,仏教,趣味,その他について独り言です.

明智光秀と言う人

 根っからの仕事人、桁違いに優秀な人物であった。そして、封建制度のなかで花が散るように、散っていった。歴史上最大のヒーローを討ち取った。なぜ?その問いは無意味であろう。事実があるだけである。

 光秀の苦悩。主君を打たねばならなかったその訳は、やはり苦悩であろう。その苦悩、悲しみ、そして懺悔。主君を討ち取る事がどう言う事か。天下はもはや統一に向かい、信長の役割はようやく終わった。もはや、歴史は信長を必要とせず。

 信長も光秀も、最後は笑って逝った。

 是非に及ばず、と。

この世界の事

 知らない間にこのザマはなんだろう。ネットに埋もれてまたAIの攻撃、個人情報の流出、悪用に怯えて暮らす。これが、スティーブ・ジョブズの目指した世界なのだろか?もちろんAIに悪気なし、課題を与えられ、その解答を示すだけ、その間に仮に人が亡くなったとしても止める事はない。

 今はまだ容易い。しかし、今後どうなるか。これに対応するため、そのくだらない事にいっそう励む事になる。AI同士の悲惨な事になろう。攻殻機動隊でもあるまいし。攻性防壁と言うものもある。そのような防壁を各人で作れと言うのか。

 全てネットに行く事、VRな世界。現実はARでも間違いだらけなのは当たり前。人としての勘は必要であろう。

米国の立ち位置

 国際司法裁判所に対して非常に厳しい対応だが、それは米国が厳しいのである。いよいよならず者の国仲間入りか。プーチンや習近平はニコニコしているだろう。しかし、ちょっと待ってほしい。当たり前でどの国もおのれの権益および、最後には威信を保ちたいしそう行動するのは当たり前。これまで、正義感ぶっていた米国は正直になっただけだである。

 我が国、総理がいくら力説し、そう振る舞っても、相入れない、と言うのも仕方がない。我が国の立場がある。つまり、なんといってもその裁判長は日本人であるし、また、前職も今年ノーベル平和賞を取った。最大に保護するのは当たり前、これも威信のためであろう。

 ただ、総理も半分はこの件は無視したいな、と言う立場ではないか。断固とした立場をとるようには見えない、半分はイヤイヤながらであろうか、

 思えば。そもそも日本は米国に、もの申せる立場か、と言う事。我が国が近現代にやってきた事、つまり日清戦争以来、民間人を死傷させてきた事については、つまり大量殺戮に関しては本家本元なのである。特に、満州事変以降の我が国については、言うまでもなく、米国の事、とやかく言う立場ではないだろう。

 正義を貫くのは良い、最後には外交で解決するしか無かろう。

仕事、好奇心によって大発展

 興味は何か。好奇心、それは冒険心の行き着くところで、別に一人天才のみに与えられた特権ではない。旅、それは、冒険で失敗を楽しむ心が大事。トラブルは日常茶飯である。ただ、天才はやはり多読である。大量の情報、それが必要である。

 昨年のヨビノリと言う番組で既に今回のノーベル物理学賞の仕事に関連する人が出ている。

https://youtu.be/xrfeaE3pbzo?si=oTRzayPDiId79k05

 この石原安野先生。自分の立ち位置からできる最大の事、胸に秘めて実現している。まさに好奇心であろう。

 まず、力学に出合い、なんと中学生、実際に自分で計算できるか。天才は式を見つめ、そこから計算できるか。周りには空間と時間、正確な法則が存在している。大学も二部の理学部物理学科で素晴らしい先生と出会い、それを最大限に活かして掴み取った物理の実験家の道。

 いずれにしても冒険心でかつ好奇心が本質である事。ノーベル賞次々に発表された。化学賞は日本人研究者、物質の成り立ちを鏡像異性体の成り立ちを見事に説明した。物理学賞は実験プロジェクト。なかでニュートリノにとんでもないエネルギーを有する事、あっけなく測定してしまった。ノーベル賞に関連する大仕事を成した人、日本人である。

致命的な過ち

 確かに存在している。大それた事を言うが、それは大体自分の過ちのみが原因の全てである事はありえないのだ。しかし、仏も振り返りを要求し、反省を促す。ミス、繰り返し繰り返しておきている。そして、あとあと判明する。ミス、それは避けて通れない。日々の行いに関係する。

 問題はそれが判明したらどうするか、その一点に尽きる。まず、認める、そして次が大事であるが、謝罪ができるかどうか。全てはそれにかかっている。謝罪を認めるのは厳しい。大変である。

 どうするか。素直に考えること。仏の教え、八正道に生きること。やはり、最後は信仰しかない。

過酷事態

 まず、複合状態→過酷事態となる。いろいろ複雑化していく。そして、各人の美学に基づき活躍していく。各自生きる。それぞれどう生きるか。勝つと増長し、負けて卑屈になると。しかし、人としていかに生きるか、それが問われている。

 最後には生死をかけた総力戦である。戦いには本質があると。それを見極めよ。そして全ては時間との戦いである。そして、全力で戦う。一命を賭して戦う。

 職分と言うものがある。我々はどう生きるか。結局、原点に戻って考える。生きることは戦いである。それを避けてはならない。過酷事態に遭遇したとき、人の何気ない振る舞い、そこに人間性が問われる。

複合事態さらに

 過酷な事態。一歩間違えると致命的事態となる。なんとしても、くだらないミスだけはしない事。それには、ここの動線を熟知し全体を指揮するしかない?一人診療も状態化。大変であるが、部長赴任しようやく一段落。なんとか周りはじめた。

 言語化と言う事。難しい、また連絡は常に不足しがちとなる。思わぬハプニングもあると。見逃しやミスと言うからになる。やはり、再発の防止こそ考える。もう、人生も晩年である。粛々とやって行くしかないだろう。自分なりに店じまいするタイミングを見極めること。自分に問い続ける。

 臨終定年といったのは横田南嶺師匠のまた先生、松原泰道師匠。黄泉の国で最初にやるのは法話であると。禅の師匠は常に遠く先を目指している。その教えはなんだろう。人は有限なり、しかし、先を目指す、まだまだと思う心、それが大事であると。わずかではあるが、やはり志というものか、その有無で行く先が相当変わってくると、はじめに言葉ありき、とした所以であろう。志、尊いそして厄介なものであろう。