gusonの日記

脳外科勤務医.仕事,茶と書,仏教,趣味,その他について独り言です.

治療適応について医師同士のはなし

種々の外科治療,血管内治療,患者さんに説明するに際して患者さんおよびその御家族らはそれぞれ反応があるもので,御家族らにはまったくいろいろ考えがあることに驚かされる.それはそれなりに理解できるし,ある程度の経験でカバーできるものであろう,

 

さて,問題は医師同士で意見がことなること.まったく医師同士大きく見解が相違することがある.そもそも,説明では患者ー医師でプライバシーにも及ぶものであり.すでにその過程でコンセントが成立しているのであれば,あまりもめることもない.しかし,いまだ介入が成立していない,治療の説明の前の段階であれば,問題となる.医師同士で抜き差しならない事態になる.

 

つまり,手術をやる,やらない,そして,それぞれのメリット,デメリットをはじき出す.最後には患者さんおよび御家族が決定する,というのに到るのだが,実はその説明と同意の過程は医師ではまったく相違している.リスクの説明に重点をおくのか,メリットに重点をおくのかそれでいろいろバイアスがはいるのもやむなし.じつは,このやる・やらないで医師同士でそうとうもめるのである.紛糾するといってもよい.最後には医師同士で自分のこれまでの経験を数字として出す.いやいやそれは個人の経験であり,経験で判断してはいけない,となる.そうはいっても経験というものがどうしてもバイアスとなる,

 

それでいえば医師などバイアスの塊なのだ.悲しいことに医師がそれに気が付いていない,自分がバイアスであることを忘れる・・・その医師は神さまになってしまうのだ.

 

最後にはそれぞれ出版した論文を出して,喧々諤々とやるのだが,いやいやそれはエビデンスではない,あくまで個人の経験の話だ.ガイドラインの論文,10年前に発表されているもの,それこそエビデンスで,それによるとこうだ,とやる.エビデンスにはランクがあり,その論文はEランクで低いではないか.ところがその治療の推奨度Cであり,治療を考慮してもよいというレベルで,抑制的に考えるべきだ云々と永遠に繰り返す.

 

また一方で別の事態については手術を前提として前医よりご紹介された患者さん.紹介を受けた病院で,手術をおこなうのが不通である.ところが,なにかの手違いで,手術をせず,様子をみるとなった場合,前医の面目丸つぶれであり,当然であるが,前医は怒るだろう.このやるやらないで結局堂々巡り.医師同士でもこのようになにに立脚するのか.結局やはり個人の経験によっている,ということ,それを認知するべきだ.

 

治療の選択についてレストランのメニューのように呈示し,患者さんに選らんでください,とやるというのもいかがなものかと思う.患者さんがきめる,インフォームドコンセントとは患者さんが納得して同意をするというプロセスを言うのであるが医者はやはり経験があり,そういった経験をバックグランドになにかの示唆を行う事,これはあって良いと思うのだが.一方ではこれは強い反対意見もある.

 

日々手術の適応は変化しているのも事実,行き着くところ,結局信仰ではないが,そこに解釈を求めてしまうようになるものヤムなし.すべて空.不変なものはない.皆空,虚しいこと.しかし,それでも一生懸命やるんですよ,という横田南嶺老師の声が聞こえてくる・・・